最近見かけたもの2題 <線路と連結器> [リポート]
最近見かけたものから興味があったもの2題です。
まずは、京急蒲田まで行く用事があり、あえて各駅停車に乗り運転台の後ろから見学していたところ、京急蒲田に近づくと高架線のスラブ軌道が通常のものとは異なった形状であることに気がつきました。それはレールの向きに枕木がひかれていたことです。それは、かつて英国のGWR(グレート・ウエスタン・鉄道)がブロードゲージ(広軌)時代に採用していた線路の敷設方を思わせるものでした。京浜急行でみたのは、フローティング・ラダー軌道というもので、JRでも一部区間で採用され始めているそうです。
かつてのGWRとは違い、レールの形状は異なり木ではなくコンクリートを使用していますが、かつてのGWRのものと大変によく似ています。有名な技術者ブルネルの指揮のもと1838年の開業したGWRは7フィート(2130mm)ゲージを採用し、レールの敷設方も独特のものでした。
詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Baulk_road
ともあれ、170年以上前と同じ様な発想が現代によみがえったことが、とてもおもしろいと思います。
ところで、私は昔の「京浜蒲田」の方が現在の「京急蒲田」より好きです。品川駅でJRから京浜急行への乗り換え清算窓口で「けいひんかまた まで」と言って清算したら駅員が「はい けいひんかまた」と言って切符をよこしてくれました。
写真:2013年8月31日 京急蒲田(カメラ:SIGMA DP-2s)
お継ぎは、小平に用事があって言った時のこと、早めに着いたので電車の写真を撮っていました。すると、20000系の連結器が見たこと無い形状であることに気づきました。しかも少し引っ込んでいます。今の西武鉄道では、下段の写真の密着連結器を使用しているはずです。この日見た他の20000系でも同様でした。仕組みや名称など気になるところです。最近では、ほとんど蒸気機関車関連や史料ばかりを見ていたので、この連結器は知りませんでした。同じ路線で異なる連結器を使用しているのは東武鉄道でもそうですし、違和感はないのですが・・・・・
写真:2013年8月31日 小平(カメラ:SIGMA DP-2s)
まずは、京急蒲田まで行く用事があり、あえて各駅停車に乗り運転台の後ろから見学していたところ、京急蒲田に近づくと高架線のスラブ軌道が通常のものとは異なった形状であることに気がつきました。それはレールの向きに枕木がひかれていたことです。それは、かつて英国のGWR(グレート・ウエスタン・鉄道)がブロードゲージ(広軌)時代に採用していた線路の敷設方を思わせるものでした。京浜急行でみたのは、フローティング・ラダー軌道というもので、JRでも一部区間で採用され始めているそうです。
かつてのGWRとは違い、レールの形状は異なり木ではなくコンクリートを使用していますが、かつてのGWRのものと大変によく似ています。有名な技術者ブルネルの指揮のもと1838年の開業したGWRは7フィート(2130mm)ゲージを採用し、レールの敷設方も独特のものでした。
詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Baulk_road
ともあれ、170年以上前と同じ様な発想が現代によみがえったことが、とてもおもしろいと思います。
ところで、私は昔の「京浜蒲田」の方が現在の「京急蒲田」より好きです。品川駅でJRから京浜急行への乗り換え清算窓口で「けいひんかまた まで」と言って清算したら駅員が「はい けいひんかまた」と言って切符をよこしてくれました。
写真:2013年8月31日 京急蒲田(カメラ:SIGMA DP-2s)
お継ぎは、小平に用事があって言った時のこと、早めに着いたので電車の写真を撮っていました。すると、20000系の連結器が見たこと無い形状であることに気づきました。しかも少し引っ込んでいます。今の西武鉄道では、下段の写真の密着連結器を使用しているはずです。この日見た他の20000系でも同様でした。仕組みや名称など気になるところです。最近では、ほとんど蒸気機関車関連や史料ばかりを見ていたので、この連結器は知りませんでした。同じ路線で異なる連結器を使用しているのは東武鉄道でもそうですし、違和感はないのですが・・・・・
写真:2013年8月31日 小平(カメラ:SIGMA DP-2s)
名古屋行き - 8 明治村 [リポート]
初めて明治村を訪れたのは蒸気機関車の運転を開始した頃、そして前回訪れたのは20年以上前になってしまった明治村です。運転再開に向けて試運転中のはずが運転していません。加えて試運転のない時に展示されているはずの9号機も展示されていず、どうしたのかと訪ねると今日明日は清掃のため運休とのことまるで詐欺のような話です。この後に載せたい話もありますので今回は長くなります。
入り口にあった「明治のりもの博」の案内です。のりもの博と銘打っている割りには大した内容ではありませんでした。建物の話は無しで鉄道関係の中からいくつか取り上げます。
まずは、先に運転を再開したN電です。再開に向けての補修作業では屋根のカンバス貼りを絶縁塗料にしたほか、各部の絶縁を強化したそうです。
ポールが1本なので終点ではポールを回す光景を見ることが出来ます。
ポールを架線にかけています。ポールを持ち上げているバネが以前より強くなったそうで、架線にかけるのが難しくなったそうです。日本で初めて開業した京都の路面電車は架空単線式でシングルポールなのに、後に開業した東京の路面電車は架空複線式にしないと認可されなかったそうです。
運転台を望みます。消火器が見えるのが玉に瑕ですが、直接制御の大きなコントローラーとハンドブレーキ良い眺めです。
客席から見た運転台の光景。もう一両のN電の修理はこれからだそうです。止めて置く時も雨ざらしなので建物があればと思います。
座席の下には車輪のスプラッシャーがありました。蒸気機関車の専売特許かと思っていましたが、電車にもあるのですね。平日に行ったおかげで貸し切り状態でN電を楽しめました。以前乗った時は、満員状態で楽しめませんでした。平日がお奨めです。
ターンテーブルの奥の建物に12号機が見えますが近くに行くことも出来ず残念でした。なお今回復活したのは12号機だけで、9号機とN電の復活のために募金を行っています。
プラットホームに入って客車は見学できました。バッファーの間隔とても狭いことが判ります。この間に人が入って連結する車両を待っていたそうですから、死傷事故が多かったことも納得できます。
スクリュー連結器の正しい連結法。螺旋のついた鎖を相手方のフックに掛け、ネジをしめてバッファーを圧着させて、反対側の鎖をかけます。車両の向きをそろえないとなりません。
現在の12号機は新製したボーラーと置き換えてあり、オリジナルボイラーが屋外展示してあります。明治村で運行を始めた時はオリジナルのボイラーを使用していました。それでも内火室などは切断して貼り替えたと聞いています。オリジナルボイラーを保存展示し運転用には新しいボイラーを使用するという目的があったそうです。板材の繋ぎ方が後のボイラーとは異なっていることが判ります。
ボイラーを後方から見ます。焚口戸は上下に開く形ですが、新しいボイラーはどうなっているのでしょうか。安全弁はポップ式に変更されていますが、カバーが付いていたので変更されていたことに気付きませんでした。加減弁ハンドルは回転式。サイドタンクも交換されてたようですが、右側だけでしょうか。左側も交換したのなら行方が気になります。サイドタンクの上にあるのはインジェクターと思われますが、ボイラーを新製したときどうしたのでしょうか。気になることばかりです。貴重な物なので左側の水槽を含めて、雨ざらしでなく建物の中にきちんとした解説をつけて保存して欲しいものです。
尾西鉄道1号機も保存されています。テンダー機関車で旅客用機関車に採用されることが一般的な4-4-2の軸配置のタンク機関車です。しかし動輪直径も小さく旅客用とは思えません。1887年にアメリカのブルックス社で造られました。
何となく模型ぽい車輪よく見ると直径が小さいにもかかわらず9本スポークです。9本スポークのB6の従輪は965mmあります。メジャーを持っていなかったので図っていませんが、直径は600mm前後でしょう。
焚口を覗いて見ると火格子のうえには石ころが沢山あります。なぜか保存機関車の火格子の上が石ころだらけと言うのが多いです。もっと大事にして欲しいと思います。上部には可溶栓、レンガを載せる出っ張りと積まれていたレンガの一部が見えます。
助士側から見た運転台です。付属機器に蒸気を送るバルブやインジェクター加減弁などがあります。前方の見通しはそんなに悪く無いように見えますが、キャブの入り口に立っているからです。
焚口は手前上方向に開くようになっています。左手前にぼけて見えるのはハンドブレーキのハンドルです。右下側に板があって踏み台のようになっているのに注目です。
この機関車は、逆転器と加減弁ハンドルを操作しやすい場所に立つと前方の窓の位置関係から前がよく見えません。側面の窓から見ようと思ってもキャブ内に伸びているサイドタンクが邪魔します。これが、左の写真の状態です。実際はもう少し前に立つことになると思います。右の写真のように板の上に登り水槽に腰掛けると前がよく見え運転しやすそうです。案内して頂いた方にモデルになってもらいました。
このように、明治時代のタンク機関車にはどうやって運転したのか首をかしげるような例を見受けます。有名なB6も同様で、明治の機関車コレクションを見ても明治時代すでに床のかさ上げをしていますし、2109を見てもキャブ内のサイドタンクをかき取り座席を設けるなどの改造を行っています。
最後に展示されている台車です。二種の台車が展示されていましたが、これは日本鉄道で使われた寝台車に付いていた台車で保存することになった時は車体もあったそうです。残念ながら解体されていまいました。片方しか展示されていませんが、もうひとつはどうなっているのでしょう。確かに同じ形ですが片側だけ保存と言うのは悲しい感じがします。雨ざらしというのも気になります。
これで3日間の名古屋紀行を終了します。
入り口にあった「明治のりもの博」の案内です。のりもの博と銘打っている割りには大した内容ではありませんでした。建物の話は無しで鉄道関係の中からいくつか取り上げます。
まずは、先に運転を再開したN電です。再開に向けての補修作業では屋根のカンバス貼りを絶縁塗料にしたほか、各部の絶縁を強化したそうです。
ポールが1本なので終点ではポールを回す光景を見ることが出来ます。
ポールを架線にかけています。ポールを持ち上げているバネが以前より強くなったそうで、架線にかけるのが難しくなったそうです。日本で初めて開業した京都の路面電車は架空単線式でシングルポールなのに、後に開業した東京の路面電車は架空複線式にしないと認可されなかったそうです。
運転台を望みます。消火器が見えるのが玉に瑕ですが、直接制御の大きなコントローラーとハンドブレーキ良い眺めです。
客席から見た運転台の光景。もう一両のN電の修理はこれからだそうです。止めて置く時も雨ざらしなので建物があればと思います。
座席の下には車輪のスプラッシャーがありました。蒸気機関車の専売特許かと思っていましたが、電車にもあるのですね。平日に行ったおかげで貸し切り状態でN電を楽しめました。以前乗った時は、満員状態で楽しめませんでした。平日がお奨めです。
ターンテーブルの奥の建物に12号機が見えますが近くに行くことも出来ず残念でした。なお今回復活したのは12号機だけで、9号機とN電の復活のために募金を行っています。
プラットホームに入って客車は見学できました。バッファーの間隔とても狭いことが判ります。この間に人が入って連結する車両を待っていたそうですから、死傷事故が多かったことも納得できます。
スクリュー連結器の正しい連結法。螺旋のついた鎖を相手方のフックに掛け、ネジをしめてバッファーを圧着させて、反対側の鎖をかけます。車両の向きをそろえないとなりません。
現在の12号機は新製したボーラーと置き換えてあり、オリジナルボイラーが屋外展示してあります。明治村で運行を始めた時はオリジナルのボイラーを使用していました。それでも内火室などは切断して貼り替えたと聞いています。オリジナルボイラーを保存展示し運転用には新しいボイラーを使用するという目的があったそうです。板材の繋ぎ方が後のボイラーとは異なっていることが判ります。
ボイラーを後方から見ます。焚口戸は上下に開く形ですが、新しいボイラーはどうなっているのでしょうか。安全弁はポップ式に変更されていますが、カバーが付いていたので変更されていたことに気付きませんでした。加減弁ハンドルは回転式。サイドタンクも交換されてたようですが、右側だけでしょうか。左側も交換したのなら行方が気になります。サイドタンクの上にあるのはインジェクターと思われますが、ボイラーを新製したときどうしたのでしょうか。気になることばかりです。貴重な物なので左側の水槽を含めて、雨ざらしでなく建物の中にきちんとした解説をつけて保存して欲しいものです。
尾西鉄道1号機も保存されています。テンダー機関車で旅客用機関車に採用されることが一般的な4-4-2の軸配置のタンク機関車です。しかし動輪直径も小さく旅客用とは思えません。1887年にアメリカのブルックス社で造られました。
何となく模型ぽい車輪よく見ると直径が小さいにもかかわらず9本スポークです。9本スポークのB6の従輪は965mmあります。メジャーを持っていなかったので図っていませんが、直径は600mm前後でしょう。
焚口を覗いて見ると火格子のうえには石ころが沢山あります。なぜか保存機関車の火格子の上が石ころだらけと言うのが多いです。もっと大事にして欲しいと思います。上部には可溶栓、レンガを載せる出っ張りと積まれていたレンガの一部が見えます。
助士側から見た運転台です。付属機器に蒸気を送るバルブやインジェクター加減弁などがあります。前方の見通しはそんなに悪く無いように見えますが、キャブの入り口に立っているからです。
焚口は手前上方向に開くようになっています。左手前にぼけて見えるのはハンドブレーキのハンドルです。右下側に板があって踏み台のようになっているのに注目です。
この機関車は、逆転器と加減弁ハンドルを操作しやすい場所に立つと前方の窓の位置関係から前がよく見えません。側面の窓から見ようと思ってもキャブ内に伸びているサイドタンクが邪魔します。これが、左の写真の状態です。実際はもう少し前に立つことになると思います。右の写真のように板の上に登り水槽に腰掛けると前がよく見え運転しやすそうです。案内して頂いた方にモデルになってもらいました。
このように、明治時代のタンク機関車にはどうやって運転したのか首をかしげるような例を見受けます。有名なB6も同様で、明治の機関車コレクションを見ても明治時代すでに床のかさ上げをしていますし、2109を見てもキャブ内のサイドタンクをかき取り座席を設けるなどの改造を行っています。
最後に展示されている台車です。二種の台車が展示されていましたが、これは日本鉄道で使われた寝台車に付いていた台車で保存することになった時は車体もあったそうです。残念ながら解体されていまいました。片方しか展示されていませんが、もうひとつはどうなっているのでしょう。確かに同じ形ですが片側だけ保存と言うのは悲しい感じがします。雨ざらしというのも気になります。
これで3日間の名古屋紀行を終了します。
名古屋行き - 7 名古屋鉄道 [リポート]
日は改まり、名古屋行き最終日は明治村を訪れました。今回は明治村への行き帰りに撮影した名古屋鉄道から取り上げます。まずは宿泊したホテルがある伏見駅から地下鉄に乗りました。今回は先日乗車した東山線ではなく名鉄犬山線に乗り入れている鶴舞線です。
伏見駅で乗車したのは名古屋鉄道の車両でした。
途中たぶん岩倉で快速特急に乗り換え、こちらはクロスシート車でした。先の地下鉄線内を走る車両もそうですが、客室内にもドアの開閉スイッチがあるのが珍しいと思いました。ここにはベルも付いていて発車するとき路面電車のように車掌が「チンチン」と合図する音が聞こえます。近鉄もそうですがとても良いものに感じます。
犬山で明治村行きのバスを待つ間に名鉄の電車を撮影しました。奥が犬山駅で、向かって左側を走るのは小牧線の電車で右に少し見えるのが広見線を行く電車です。
たぶん、犬山駅に到着する電車です。
中部国際空港アクセスのセントリア(centrair)の車両ですが、小牧線を通って車庫に回送する所だそうです。
広見線を行く東岡崎行き普通電車。どこをどう辿って行くのかさっぱり判りません。これももしかしたら回送電車かもしれません。
小牧線の電車ですが、今では何処でも見かけるようなアルミ車です。ここでも、アルミやステンレスの塗装をしていない車両が増えて来ているようです。
明治村を見学した後は新鵠沼へ行き、犬山遊園まで一駅間歩いきかつて併用軌道だった犬山橋を見てきました。ここへは、まだ併用軌道だった時代に来たことがありました。犬山橋の新鵠沼より撮影を始めました。右に新しくできた道路占用橋が見えます。
犬山遊園よりから犬山橋を撮影。こうして見るとこんなに狭いところを自動車が走っていたのだと改めて驚きました。
右側の道路がこのあたりで併用軌道となり犬山橋の中を電車と一緒に渡ってたのです。いまは下流側のとなりに道路橋があります。
次回はいよいよ明治村の話をします。
伏見駅で乗車したのは名古屋鉄道の車両でした。
途中たぶん岩倉で快速特急に乗り換え、こちらはクロスシート車でした。先の地下鉄線内を走る車両もそうですが、客室内にもドアの開閉スイッチがあるのが珍しいと思いました。ここにはベルも付いていて発車するとき路面電車のように車掌が「チンチン」と合図する音が聞こえます。近鉄もそうですがとても良いものに感じます。
犬山で明治村行きのバスを待つ間に名鉄の電車を撮影しました。奥が犬山駅で、向かって左側を走るのは小牧線の電車で右に少し見えるのが広見線を行く電車です。
たぶん、犬山駅に到着する電車です。
中部国際空港アクセスのセントリア(centrair)の車両ですが、小牧線を通って車庫に回送する所だそうです。
広見線を行く東岡崎行き普通電車。どこをどう辿って行くのかさっぱり判りません。これももしかしたら回送電車かもしれません。
小牧線の電車ですが、今では何処でも見かけるようなアルミ車です。ここでも、アルミやステンレスの塗装をしていない車両が増えて来ているようです。
明治村を見学した後は新鵠沼へ行き、犬山遊園まで一駅間歩いきかつて併用軌道だった犬山橋を見てきました。ここへは、まだ併用軌道だった時代に来たことがありました。犬山橋の新鵠沼より撮影を始めました。右に新しくできた道路占用橋が見えます。
犬山遊園よりから犬山橋を撮影。こうして見るとこんなに狭いところを自動車が走っていたのだと改めて驚きました。
右側の道路がこのあたりで併用軌道となり犬山橋の中を電車と一緒に渡ってたのです。いまは下流側のとなりに道路橋があります。
次回はいよいよ明治村の話をします。
名古屋行き - 6 リニア・鉄道館 [リポート]
この日は、三岐鉄道を後にして昨年オープンした「リニア・鉄道館」を訪れました。考えてみれば一日でこれだけ回ったのですからずいぶん欲張りなことでした。さて、訪れたリニア・鉄道館は博物館というよりは車両を集めて置いてある悪く言えば物置的な印象でした。車両以外の展示施設も少なく、鉄道博物館でも博物館としての物足らなさを感じている私にとっては残念な印象でした。それはともかく保存されている車両には興味深いものもあったので幾つか取り上げます。
館内に入ってまず目に入るのがシンボル展示のC6217と新幹線にリニアの試作車です。鉄道の高速化へのシンボル展示になっているようですが、照明が暗すぎ照明が当たった部分とのコントラストが強すぎるように思いました。写真を撮るのもたいへんですが、観察にも向いていません。イメージ展示としては良いのかも知れませんが。掲載写真は明るく見えるように補正しています。全体の様子は雑誌などで再三紹介されているので、C6217の写真を載せます。生きているC62を見たことがありますが、軸重軽減型のみだったので重量型を見るのは初めてです。
C62の重と軽の違いは従台車の前部にあるイコライザーの支点の位置ですが、これだけ見ても何のことか判りませんね。でも見てみたかった部分です。従台車の一部が左右に動いた時に動輪に干渉しないように凹んでいます。
日本で現存する唯一の蒸気動車キハ6401です。工藤式と呼ばれるタイプで、端梁を取り外すことで簡単にボイラーを含む機関部を車体から外してメンテナンスできることが特許の一部になっています。しかし湯口徹氏の著書「日本の蒸気動車」にある通り同様の特許は海外に存在していました。
ボイラーの後部。上部手前にあるのがボイラー側を前にして走る時の加減弁ハンドルがある。上の方から伸びているワイヤーは後ろ向きに走る時に加減弁を操作するためにあります。
客室から機関部を見たところ。下に焚口がありそのボイラーの上に天秤のようになっていてワイヤーが繋がっています。後ろ向きに走る時は機関士がこのワイヤーを引っ張って加減弁を操作します。そのハンドルの写真を撮ったはずなのに見当たりません。不覚です。この写真を見て気付いたこと客室の車番が6014になっています。調べてみると、この車両はホジ6014→ジハ6006→キハ6401と改番されてきたことになっていますが、リニア・鉄道館では型式ホジ6005として紹介されています。
後に雨宮製作所となる大日本軌道株式会社が1918年に東濃鉄道用として製造し、後に国鉄のケ90形となったケ90号機が屋外に展示されています。私が訪れた直後に名取紀之氏が「編集長敬白」でケ90とケ91を取り上げています。このように内部構造が分かるようにカットされています。ウェルタンク(ボトムタンク)とサイドタンクのあるタンク機関車です。
フロントデッキにあたりにウェルタンクの給水口がありますが、サイドタンクには給水口が見当たりません。通常型ではサイドタンクとウェルタンクを繋いでおいてサイドタンク上から給水しウェルタンク側から水を採りだします。そのタンク通しを繋ぐ管も無く全くおかしなことになっていました。元々はウェルタンクだけでサイドタンクの無い機関車に後からサイドタンクを付け、時にウェルタンクから時にサイドタンクから給水するように切り替えて使用したのではと考えています。もしかしたら軸重を増すためのバラストタンクだったのでしょうか。
この日はここで一日の行動を終えました。
※ 12月7日に補筆いたしました。
館内に入ってまず目に入るのがシンボル展示のC6217と新幹線にリニアの試作車です。鉄道の高速化へのシンボル展示になっているようですが、照明が暗すぎ照明が当たった部分とのコントラストが強すぎるように思いました。写真を撮るのもたいへんですが、観察にも向いていません。イメージ展示としては良いのかも知れませんが。掲載写真は明るく見えるように補正しています。全体の様子は雑誌などで再三紹介されているので、C6217の写真を載せます。生きているC62を見たことがありますが、軸重軽減型のみだったので重量型を見るのは初めてです。
C62の重と軽の違いは従台車の前部にあるイコライザーの支点の位置ですが、これだけ見ても何のことか判りませんね。でも見てみたかった部分です。従台車の一部が左右に動いた時に動輪に干渉しないように凹んでいます。
日本で現存する唯一の蒸気動車キハ6401です。工藤式と呼ばれるタイプで、端梁を取り外すことで簡単にボイラーを含む機関部を車体から外してメンテナンスできることが特許の一部になっています。しかし湯口徹氏の著書「日本の蒸気動車」にある通り同様の特許は海外に存在していました。
ボイラーの後部。上部手前にあるのがボイラー側を前にして走る時の加減弁ハンドルがある。上の方から伸びているワイヤーは後ろ向きに走る時に加減弁を操作するためにあります。
客室から機関部を見たところ。下に焚口がありそのボイラーの上に天秤のようになっていてワイヤーが繋がっています。後ろ向きに走る時は機関士がこのワイヤーを引っ張って加減弁を操作します。そのハンドルの写真を撮ったはずなのに見当たりません。不覚です。この写真を見て気付いたこと客室の車番が6014になっています。調べてみると、この車両はホジ6014→ジハ6006→キハ6401と改番されてきたことになっていますが、リニア・鉄道館では型式ホジ6005として紹介されています。
後に雨宮製作所となる大日本軌道株式会社が1918年に東濃鉄道用として製造し、後に国鉄のケ90形となったケ90号機が屋外に展示されています。私が訪れた直後に名取紀之氏が「編集長敬白」でケ90とケ91を取り上げています。このように内部構造が分かるようにカットされています。ウェルタンク(ボトムタンク)とサイドタンクのあるタンク機関車です。
フロントデッキにあたりにウェルタンクの給水口がありますが、サイドタンクには給水口が見当たりません。通常型ではサイドタンクとウェルタンクを繋いでおいてサイドタンク上から給水しウェルタンク側から水を採りだします。そのタンク通しを繋ぐ管も無く全くおかしなことになっていました。元々はウェルタンクだけでサイドタンクの無い機関車に後からサイドタンクを付け、時にウェルタンクから時にサイドタンクから給水するように切り替えて使用したのではと考えています。もしかしたら軸重を増すためのバラストタンクだったのでしょうか。
この日はここで一日の行動を終えました。
※ 12月7日に補筆いたしました。
名古屋行き - 5 三岐鉄道北勢線 [リポート]
現在では日本でのスタンダードゲージである1067mm以下の営業鉄道は、黒部渓谷鉄道と近鉄内部・八王子線それに近鉄から三岐鉄道に移管された北勢線があるだけです。近鉄内部・八王子線は廃止の動きもあるようですので、もしそうなると一般の営業鉄道で日本最後の狭軌線となる訳です。
短い滞在時間でしたの仕方がありませんが、撮影したのは麻生田〜楚原の一ヶ所だけでした。この区間は北勢線の撮影名所でめがね橋があります。右の方向に向かって上り勾配で吊りかけの音も高らかに走って行きました。
ここは、相当知られた名所であるらしくマニアだけでなく一般の人も訪れる人があります。電車をバックに記念写真を撮っている家族もありました。
同じ場所で鳥居をいれて。近鉄の狭軌線は旧型車からのっぺりした車両に更新されて一気に興味が薄くなってしまいましたが、ここ北勢線に来てみて古い車両も残っていて案外魅力が残っていると感じました。
踏切で線路を観察します。確かにレールの幅が狭いことを実感しましたが、レールは太く確りした軌道です。
今回は一見しただけでしたが、電車に乗ることも含め改めて北勢線にやって来たいと思います。
次回は、この日最後にたずねた「リニア・鉄道館」です。
短い滞在時間でしたの仕方がありませんが、撮影したのは麻生田〜楚原の一ヶ所だけでした。この区間は北勢線の撮影名所でめがね橋があります。右の方向に向かって上り勾配で吊りかけの音も高らかに走って行きました。
ここは、相当知られた名所であるらしくマニアだけでなく一般の人も訪れる人があります。電車をバックに記念写真を撮っている家族もありました。
同じ場所で鳥居をいれて。近鉄の狭軌線は旧型車からのっぺりした車両に更新されて一気に興味が薄くなってしまいましたが、ここ北勢線に来てみて古い車両も残っていて案外魅力が残っていると感じました。
踏切で線路を観察します。確かにレールの幅が狭いことを実感しましたが、レールは太く確りした軌道です。
今回は一見しただけでしたが、電車に乗ることも含め改めて北勢線にやって来たいと思います。
次回は、この日最後にたずねた「リニア・鉄道館」です。
名古屋行き - 4 三岐鉄道三岐線 [リポート]
この日は貨物鉄道博物館見学後は貨物列車の時間を見ながら、三岐鉄道三岐線それに狭軌線の三岐鉄道北勢線を行ったり来たりして撮影をしました。今回はその内の三岐鉄道本線を紹介します。秩父鉄道ともに貨物営業をしている数少ない私鉄である三岐鉄道の貨物列車はぜひ見たいとおもっていました。
東藤原の駅に貼られていた案内です。脱線事故を起こした線路の復旧工事をしています。駅では、青焼きのダイヤグラムを売っていました。
丹生川〜伊勢治田でとらえた富田行き貨物列車。バックには太平洋セメントの石灰石鉱山である藤原岳がそびえる。
三里〜丹生川を走る近鉄富田行き電車。バックには藤原岳が見える。広告電車なのは残念です。線路をオーバークロスする道路上から撮影。
上記と同じ場所で撮影した貨物列車ですが、この列車は編成が短かったのが一寸残念でした。
東藤原に向かう貨物列車。三岐鉄道の貨物列車は重連運転が基本のようです。先程と同じ道路上から撮影。
先程と同じオーバークロスする道路から下に降りて撮影した近鉄富田行き電車。三岐鉄道の電車はすべて西武鉄道からやって来ました。以前乗った時は電車のピッチングが酷いので驚きましたが、今回は車で行ったので電車に乗っていません。しかし、走るところを観察したところ揺れは相変わらずの様でした。
上記の電車と同じ場所で撮影した富田行き貨物列車。
上記と同じ貨物列車です。貨物列車の重量は秩父鉄道と同じ1000トンの様ですが、列車の運転速度は秩父鉄道よりかなり速いものでした。勾配も秩父鉄道とはあまり変わらないようなので、機関車を重連にしている理由は列車の運転速度を高めるためでしょう。
やはり貨物列車は魅力あります。地元に近い秩父鉄道を尋ねたくなりました。次は、もと近鉄の狭軌線だった三岐鉄道北勢線へ向かいます。
東藤原の駅に貼られていた案内です。脱線事故を起こした線路の復旧工事をしています。駅では、青焼きのダイヤグラムを売っていました。
丹生川〜伊勢治田でとらえた富田行き貨物列車。バックには太平洋セメントの石灰石鉱山である藤原岳がそびえる。
三里〜丹生川を走る近鉄富田行き電車。バックには藤原岳が見える。広告電車なのは残念です。線路をオーバークロスする道路上から撮影。
上記と同じ場所で撮影した貨物列車ですが、この列車は編成が短かったのが一寸残念でした。
東藤原に向かう貨物列車。三岐鉄道の貨物列車は重連運転が基本のようです。先程と同じ道路上から撮影。
先程と同じオーバークロスする道路から下に降りて撮影した近鉄富田行き電車。三岐鉄道の電車はすべて西武鉄道からやって来ました。以前乗った時は電車のピッチングが酷いので驚きましたが、今回は車で行ったので電車に乗っていません。しかし、走るところを観察したところ揺れは相変わらずの様でした。
上記の電車と同じ場所で撮影した富田行き貨物列車。
上記と同じ貨物列車です。貨物列車の重量は秩父鉄道と同じ1000トンの様ですが、列車の運転速度は秩父鉄道よりかなり速いものでした。勾配も秩父鉄道とはあまり変わらないようなので、機関車を重連にしている理由は列車の運転速度を高めるためでしょう。
やはり貨物列車は魅力あります。地元に近い秩父鉄道を尋ねたくなりました。次は、もと近鉄の狭軌線だった三岐鉄道北勢線へ向かいます。
名古屋行き - 3 貨物鉄道博物館 [リポート]
ウィステリア鉄道の後は貨物鉄道博物館へ向かいました。以前三岐鉄道を訪れた時は貨物鉄道博物館の会館準備中でしたので、初めての訪問になります。この博物館は、公開日が月一回なので訪れるためにはスケジュールを合わせる必要があります。今回の名古屋行きの目的は「わが国鉄時代 Vol.7」に書いた「ワンランクアップの写真修整術」を読んだ方たちからもっと詳しい解説をして欲しいということで名古屋に出向いたわけです。運良く、その翌日が丁度貨物鉄道博物館の公開日だったのです。
駐車場の向こうに貨物鉄道博物館の建物があります。保存車両は屋外なのでいつでも見学できますが、建物の中は公開日でなくては見学できません。
建物の中には、私有貨車に付いていた社紋や名板が多数おかれていました。さらに奥では模型の運転が行われていました。若干の説明展示もありましたが、博物館と言うよりは物置と言った風でした。今後展示が充実することを期待します。
屋外の保存車両には興味深いものが多数あります。以前は近くの池袋にありながら、狭い場所で金網に囲まれていて見学も叶わなかった東武鉄道39号機も間近に見ることができました。見かけよりは内部は痛みが酷いそうですが、破損も少なく良い状態を保っているようです。もとは日本鉄道が1898年にイギリスのシャープ・スチュアートから購入した機関車です。
日本鉄道では形式SSbt2/4・番号211を名乗り鉄道院形式5650を経て東武鉄道B4形39号機となりました。空気ブレーキに改装されてされたほか比較的原形を保っているようです。内側に開く焚口戸も日本では珍しいものでしょう。火室の中まで観察できませんでしたが、揺れ火格子になっているようです。キャブ内の機器が荒らされている機関車が多い中大切にして欲しいのですが、屋外に置かれているので今後が心配です。
近江鉄道からやって来たワ1形です。鋼材の柱に側面は木材で作られています。中に入って見学できるようになっていました。
ワ11の内部には昔の貨物を積んでいる様子が再現されていました。
ワ1は1906年新潟鉄工所製になっていましたが、鋼材は輸入品だったようで「LANARKSHIRE ST××× Co.Ld. SCOTLAND」の表記があります。
ホサ1形です。1930年に浅野造船所で石灰石輸送用に作られ浅野セメントで使用されたホッパ車ですが、砕石散布用に改造されています。最後は福井鉄道で使用されていたそうです。
テラ1形は下塗りの状態でした。少しづつ整備をしているのでしょう。
ワフ21000形はコンプレッサーで圧縮空気を送り込み、制動を動かす試験をしていました。動態保存が実現して昔のような貨物列車が再現できるとうれしいです。この他のも沢山の保存車両がありましたが、屋外で雨ざらしなので痛みが心配なのと不心得な人による破壊が心配なところです。今後とも大切に保存されることを祈ります。
注:元旋盤工様からご指摘を頂きましたので、ワ1形に関する説明を修正しました。
駐車場の向こうに貨物鉄道博物館の建物があります。保存車両は屋外なのでいつでも見学できますが、建物の中は公開日でなくては見学できません。
建物の中には、私有貨車に付いていた社紋や名板が多数おかれていました。さらに奥では模型の運転が行われていました。若干の説明展示もありましたが、博物館と言うよりは物置と言った風でした。今後展示が充実することを期待します。
屋外の保存車両には興味深いものが多数あります。以前は近くの池袋にありながら、狭い場所で金網に囲まれていて見学も叶わなかった東武鉄道39号機も間近に見ることができました。見かけよりは内部は痛みが酷いそうですが、破損も少なく良い状態を保っているようです。もとは日本鉄道が1898年にイギリスのシャープ・スチュアートから購入した機関車です。
日本鉄道では形式SSbt2/4・番号211を名乗り鉄道院形式5650を経て東武鉄道B4形39号機となりました。空気ブレーキに改装されてされたほか比較的原形を保っているようです。内側に開く焚口戸も日本では珍しいものでしょう。火室の中まで観察できませんでしたが、揺れ火格子になっているようです。キャブ内の機器が荒らされている機関車が多い中大切にして欲しいのですが、屋外に置かれているので今後が心配です。
近江鉄道からやって来たワ1形です。鋼材の柱に側面は木材で作られています。中に入って見学できるようになっていました。
ワ11の内部には昔の貨物を積んでいる様子が再現されていました。
ワ1は1906年新潟鉄工所製になっていましたが、鋼材は輸入品だったようで「LANARKSHIRE ST××× Co.Ld. SCOTLAND」の表記があります。
ホサ1形です。1930年に浅野造船所で石灰石輸送用に作られ浅野セメントで使用されたホッパ車ですが、砕石散布用に改造されています。最後は福井鉄道で使用されていたそうです。
テラ1形は下塗りの状態でした。少しづつ整備をしているのでしょう。
ワフ21000形はコンプレッサーで圧縮空気を送り込み、制動を動かす試験をしていました。動態保存が実現して昔のような貨物列車が再現できるとうれしいです。この他のも沢山の保存車両がありましたが、屋外で雨ざらしなので痛みが心配なのと不心得な人による破壊が心配なところです。今後とも大切に保存されることを祈ります。
注:元旋盤工様からご指摘を頂きましたので、ワ1形に関する説明を修正しました。
名古屋行き - 2 ウィステリア鉄道 [リポート]
久しぶりに名古屋行きのリポートを続きです。名古屋在住の方に自動車で三岐鉄道に案内していただきました。その三岐鉄道の終点西藤原にはウィステリア鉄道という施設があります。ここには、蒸気機関車E102号機・入換用機関車DB25・電気機関車いぶき502号機それにライブスチームの運転施設があります。ここには以前4×5カメラを担いでやって来たことがあります。その時には無かったライブスチームの運転風景を中心にご紹介します。
東藤原駅構内の脱線事故の影響で、東藤原〜西藤原間はバスによる代行運転中です。そのため電車は暫く走っていなく、線路には錆が浮いています。右端にはウィステリア鉄道に保存されている蒸気機関車が見えます。
蒸気機関車「E102」です。三岐鉄道開業当時から使用されていた機関車でボールドウィン製の蒸気機関車を見本に製造されてものです。台枠はオリジナルとは異なり板台枠になっています。
毎週日曜日にはライブスチームの運転が行われています。運転が始まると人が集まってきました。
蒸気機関車だけではなく電車もありました。一番前には子供がいますが、運転はしていません。模型とはいえ実物の電車のようなリアルな音がします。
電車の全景。運転は列車の最後尾で行います。これは、なかなか良い方法です。
アップで撮ると本物のように見える?かな。
蒸気機関車はここに保存されている機関車と同形ですが、実物が汽車会社製なのにたいしてライブスチームの方は日立の製造板をつけていました。
ライブスチームを楽しんだ後は貨物列車の始発駅である東藤原駅に向かいました。
東藤原駅構内の脱線事故の影響で、東藤原〜西藤原間はバスによる代行運転中です。そのため電車は暫く走っていなく、線路には錆が浮いています。右端にはウィステリア鉄道に保存されている蒸気機関車が見えます。
蒸気機関車「E102」です。三岐鉄道開業当時から使用されていた機関車でボールドウィン製の蒸気機関車を見本に製造されてものです。台枠はオリジナルとは異なり板台枠になっています。
毎週日曜日にはライブスチームの運転が行われています。運転が始まると人が集まってきました。
蒸気機関車だけではなく電車もありました。一番前には子供がいますが、運転はしていません。模型とはいえ実物の電車のようなリアルな音がします。
電車の全景。運転は列車の最後尾で行います。これは、なかなか良い方法です。
アップで撮ると本物のように見える?かな。
蒸気機関車はここに保存されている機関車と同形ですが、実物が汽車会社製なのにたいしてライブスチームの方は日立の製造板をつけていました。
ライブスチームを楽しんだ後は貨物列車の始発駅である東藤原駅に向かいました。
名古屋行き - 1 2412号蒸気機関車と名古屋市電1401号電車 [リポート]
去る11月3日から5日まで名古屋に行ってきました。名古屋方面に行くのは2003年以来です。以前に東海道新幹線に乗るのは何時だったか忘れてしまいましたが、その時は300系でした。今回は最新のN700系に乗っての名古屋入りとなりました。
名古屋駅を降りて人混みを歩くが、心なしか東京よりゆったりした足取りに感じる。そうして、初めて乗ることになった名古屋市営地下鉄、奇しくも最初に開業した東山線です。第3軌条をコレクターシューがこすれる音が楽しい。
ホーム上にあった女性専用車の標識。朝は始発から夜にも実施していると言うことは相当に混雑が酷いのか。ちなみに東京地区では朝のみの実施です。
地下鉄は伏見駅で下車し、名古屋市科学博物館へここには2412号蒸気機関車と名古屋市電1401号車が保存されています。まずは、日本工業大学で動態保存されている2019号機とともに国鉄長野工場で整備を受けていたドイツ製のB6である2412号機にご対面です。キャブの中を見学できるように階段が設置されていますが、立ち入り禁止状態なので見学出来ません。
高い位置に付けられたヘッドライトや空気ブレーキのための付属機器のつけ方、それに煙突の改造が2109号機と同じです。煙室は2109号機より拡大されているので前つんのめりに見えます。
従輪には、2103の刻印があります。スポークの形状は初期B6の2100形と同じなので振り替えがあったのでしょう。
2400形はドイツの3つのメーカーで製造されましたが、2412号機は1904年製のハノーマーク製です。
動輪を見ると「KRUPP 1904」の刻印があるので、もしかすると動輪はクルップで製造を分担したのでしょう。他のドイツ製B6であるシュワルツコップとヘンシェル製も動輪はクルップで製造したのでしょうか。
スライドバーを支える部品は鋳物でがっちりと出来ています。2109号機ではこの部分にステップがあり良く見えませんが、板材で後ろ側から支えています。訪問した3日は2109号機の故障が直り久々の公開運転をした日でした。その様子は下記のリンクをクリックして下さい。
FaceBook記事
リポート:ブログ
名古屋市電の1401号車も隣に保存されています。名古屋市電は廃止直前の1974年に金山橋から一往復乗ったことがあります。
台車を見るとステップ側の車輪が小さくなっています。ステップ部分の床を低くするためのものですが、ボギー台車のセンターは中心にあるのでいわゆるマキシマム・トラクションではありません。
鉄道コレクションでこの1400形があす8日から発売されるとの告知ポスターがありました。10000台限定です。
名古屋駅を降りて人混みを歩くが、心なしか東京よりゆったりした足取りに感じる。そうして、初めて乗ることになった名古屋市営地下鉄、奇しくも最初に開業した東山線です。第3軌条をコレクターシューがこすれる音が楽しい。
ホーム上にあった女性専用車の標識。朝は始発から夜にも実施していると言うことは相当に混雑が酷いのか。ちなみに東京地区では朝のみの実施です。
地下鉄は伏見駅で下車し、名古屋市科学博物館へここには2412号蒸気機関車と名古屋市電1401号車が保存されています。まずは、日本工業大学で動態保存されている2019号機とともに国鉄長野工場で整備を受けていたドイツ製のB6である2412号機にご対面です。キャブの中を見学できるように階段が設置されていますが、立ち入り禁止状態なので見学出来ません。
高い位置に付けられたヘッドライトや空気ブレーキのための付属機器のつけ方、それに煙突の改造が2109号機と同じです。煙室は2109号機より拡大されているので前つんのめりに見えます。
従輪には、2103の刻印があります。スポークの形状は初期B6の2100形と同じなので振り替えがあったのでしょう。
2400形はドイツの3つのメーカーで製造されましたが、2412号機は1904年製のハノーマーク製です。
動輪を見ると「KRUPP 1904」の刻印があるので、もしかすると動輪はクルップで製造を分担したのでしょう。他のドイツ製B6であるシュワルツコップとヘンシェル製も動輪はクルップで製造したのでしょうか。
スライドバーを支える部品は鋳物でがっちりと出来ています。2109号機ではこの部分にステップがあり良く見えませんが、板材で後ろ側から支えています。訪問した3日は2109号機の故障が直り久々の公開運転をした日でした。その様子は下記のリンクをクリックして下さい。
FaceBook記事
リポート:ブログ
名古屋市電の1401号車も隣に保存されています。名古屋市電は廃止直前の1974年に金山橋から一往復乗ったことがあります。
台車を見るとステップ側の車輪が小さくなっています。ステップ部分の床を低くするためのものですが、ボギー台車のセンターは中心にあるのでいわゆるマキシマム・トラクションではありません。
鉄道コレクションでこの1400形があす8日から発売されるとの告知ポスターがありました。10000台限定です。
C1266の全般検査 [リポート]
大宮総合車両センター前に展示してあるD51187。大宮工場製の製造番号NO.1です。
まるで、現役の様です。大宮工場1号のメーカープレートが光ります。
先日、大宮総合車両センターにC1266の全般検査の様子を見学してきました。この催しは、もおかSL倶楽部会員向けのイベントで、一般の参加は出来ません。当日の写真ついては、残念ながらWebでの公開は控えるようにとのことでしたのでリポートをお伝えします。
タイヤを新しく嵌め直した動輪や修理を終えたボイラーもそろい、細かな部品も傷んだ物は作り直すなど作業は順調に進んでいました。10月中旬の出場が楽しみです。きっと、真岡鐡道に戻ってもこれまで以上に活躍してくれるでしょう。
まるで、現役の様です。大宮工場1号のメーカープレートが光ります。
先日、大宮総合車両センターにC1266の全般検査の様子を見学してきました。この催しは、もおかSL倶楽部会員向けのイベントで、一般の参加は出来ません。当日の写真ついては、残念ながらWebでの公開は控えるようにとのことでしたのでリポートをお伝えします。
タイヤを新しく嵌め直した動輪や修理を終えたボイラーもそろい、細かな部品も傷んだ物は作り直すなど作業は順調に進んでいました。10月中旬の出場が楽しみです。きっと、真岡鐡道に戻ってもこれまで以上に活躍してくれるでしょう。